ネーミングの科学

名前はプレゼント

おそらく誰もがこの世に生まれ落ちて最初にもらうプレゼントは名前だ。given nameというくらいなのだからそこは万国共通だろう。

両親は、いろんな意味合いや想いを込めてあなたに名前を授けたのだ。こんな人間になってほしいという理想と期待を込めて。今時は、キラキラネームなる言葉までが生まれ、ちょっと変わった名前・・・というより、いろんな背景から独特の名前を持った若い世代が増えたように思う。スノーボードの成田童夢(ドウム)やレーシングドライバーの若手、阪口晴南(セナ)などがすぐに思い浮かぶ。放送作家も子供に笑福(エフ)なる名前を授けていた。人

気商売をしている人ならではなのか、名前を覚えてもらうこと、記憶に残ることの大切さからくる親心かどうかは定かではないが、一度聞いたらなかなか忘れない名前である。

 

ミーハーという言葉がある。ひと昔前、いやもっと時代を遡れば、ベビーブーム時代に名前の最初に”み”や”は”で始まる女の子の名前(みほ、はるこ、みかこ、はなこ and more)が多かったことからポピュラーである、大衆迎合的である、ということを揶揄して?いや、そういうムーブメントを象徴した流行語が廃れることなく口語的な日本語として定着したらしい。

今回はネーミングの科学と題して、名付けとその周辺について感じたこと思うことを書いていきたい。

横文字マンション名

一見のすると、リノベーションや内装工事とは関係ないように思うが、案外通底しているもの。

それは、現場住所や物件名などで建物名や店舗名を記入する機会が多い。

また、このブログを読まれている方も持ち家は別として、マンションやアパートなど誰しもがどこかの建物を買うなり、借りるなりして暮らしているので建物名などは割と身近なテーマだろう。自分の心の中のわだかまりとしていつもあるのが、なぜマンション名に横文字(特にフランス語)が多い。

 

実名を挙げてしまうと、いろいろと問題になりそうなので具体例は避けるが、メゾン・ド・⚪︎⚪︎・地名みたいなのはすぐにイメージができると思う。それ程度ならまだいいのが、辞書がないと絶対に意味分からないものも多い。おそらく、名付け親としては、意味よりも語感、言葉のリズムを優先してるように思う。

メタメッセージとして、なんだか訳わからないけれど、ある種のインテリジェンスを感じ取ってほしいのかな。。。

なんて理解に努めてみたりする。

(会議などでスーツを着た大人たちが真剣な眼差しで、会議室のホワイトボードに書かれた最終候補のフランス語やらイタリア語やらときにはラテン語を見つめながら、決選投票している光景を想像してしまう。)

 

ある時代の流行だろうが、不思議だ。おそらくイマの時代のフツーも、やがてミステリーになるだろう。きっと母国語の人からするとWHY JAPANISE PEOPLE!?の世界。

ちなみにこのフレーズで有名な厚切りジェイソンは、「厚切りベーコン」というフレーズの言い間違いに関連付けていくことで、新しい名前を覚えるという作業負担を意図的に減らしていく(=覚えやすい)戦略的なマーケティングの結果らしい。なんとなくの違和感がヒダとなって人の潜在意識に残していく。(左脳的な頭のいい人たちが考えそうな発想。。。。)

一度聞いたら忘れられない店

新しい人間関係を築いていくとき最初のステップにして、最重要事項とは相手に名前を覚えてもらうこと。

取引先の人に自分の名前を電話越しに間違えられると悪気はないにしろ、かなりショックな経験。自分の存在が半透明であるような、相手の視界から見切れているような印象。相手に覚えてもらうことと同時に、相手を覚えることも簡単なようだけれど、なかなか難しい。

 

例えば、気に入ったお店を発見して、会食で使いたいと思った時になかなか名前が出てこなかったりして、すごくヤキモキする。正確に記憶していなくても、候補検索にヒットして何とかたどり着く時代。ただ、そんな中でもネット世界のクラウドに依存することのない、いきなり強烈な顔面パンチを食らったようなネーミングのお店に出くわした経験がある。以前に都内某所で” 呑み処 捨て石 ”という看板を見たことがある。先出のフランス語のマンションのように、練りに練った感じがない、潔さに感銘を受けた。

 

SNS全盛時代のイマ、こういった面白いの看板はすぐに写真に撮られ、ハッシュダグをつけられて、思わぬ形で拡散していくだろう。平安時代の和歌や短歌、江戸時代の俳句がその時代のSNSであったように、人間には元来、もの珍しいものを記憶に留め、友達や家族とシェアしたいという欲求が普遍的に存在する。そういった習性を逆手にとって、あの手この手と面白可笑しい名前が街には氾濫しているものの、記憶の断片に引っ掛かるものは、本当にごくわずかしかない。

ネーミングの粋

かなり前に、飲食店プロデューサーなる方のお話しを聞く機会があって、その方曰く、ネーミングのツボは「相手のフックにかけるような感覚が大事」と言っていた。言い得て妙。

練られ過ぎているものは気障(キザ)、かといって安易なネーミングは野暮、ちょうどの具合がネーミングの粋というものだ。

それは、俳句や短歌にやはり通ずるところはあるし、落語で言うなら”江戸の粋”というもの。

明確な採点方式はないものの、ちょうど良い案配というのはあるもの。この感覚の曖昧さは、きっと日本人独特のものかもしれない。それは、SNSにアップされる写真を見て、感じる感覚(センス)に近い、一つの教養のようなもの。「神は細部に宿る」というけれど、内装工事も人間関係もまずは名前からはじまる。